2016年08月29日

「八月十日付黒田如水宛鍋島直茂書状」に関する仮説【高橋陽介氏】




★白峰旬先生(http://sagasengoku.seesaa.net/article/441436025.html)と同時に、高橋陽介さんにも深い考察を頂きました。許可を得て全体共有致します。

先ずは書状の原文を掲載します。

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【八月十日付 黒田如水宛鍋島直茂書状 原文】

★『佐賀県史料集成古文書編 第21巻(佐賀県立図書館・昭和55年10/1発行)』P.195
(頭注に『伏見落城ノ報』 『直茂上東延期』とあり。)

『川崎氏所蔵文書』一号

八月十日付 黒田如水宛 鍋島直茂書状


従上方到来候、ふしミ城去朔日、火矢にて被焼付、手々に取くつし、城中之衆皆々被相果候由申来候、貴邊へも其聞へ可有御座候へ共申入候、此方手前之仕寄無心元存、又ハ増右・長大・安国寺よりいそき可罷上通、連々預御状候へ共、于今延引、不審之様二承候間、罷上候ハて不叶儀と存、今日こゝもと罷たち候處二、我等もの右之落去見申候て罷下、夜中二参着申候二付て、罷上儀先以さしのへ申候、相易儀共候者、御入魂可忝候、恐惶謹言、
      鍋加守
 八月十日  直茂 (花押)
 如水様
   人々御中  』

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「八月十日付黒田如水宛鍋島直茂書状」に関する仮説 【高橋陽介氏】2016年8月26日付


@ (先行研究)
野口朋隆氏、中西豪氏が「直茂が早々に徳川方加担を鮮明にしていた」「徳川方(東軍)として旗幟鮮明、また確固たる意志があった」の根拠とされている史料。
深川直也氏はこれに対し、「直茂は、如水と相談しあってるだけで、徳川方・奉行方という大枠の話ではない」とし、「直茂は東軍であった、は「言いよう・考えよう」のお話」と結論。(2016.08.22)
さらに白峰旬氏が「八月十日付黒田如水宛鍋島直茂書状」に対する見解を示されたとのこと。(2016.08.26)
そこで白峰氏の見解を読むまえに、自分の見解を述べる。まだ、憶測の部分が多い。


A (家譜、軍記の類を使わない)
『川角太閤記』、直茂が家康のために東海道の米を買い占めた話 → 使わない
『直茂公譜』『勝茂公譜』、勝茂が西軍についたと聞いて直茂が怒る話 → 使わない
その他、親子で東西に分かれて家名を存続しようとしたなどの俗説 → 使わない


B (黒田如水の立ち位置)
如水は最初から東軍。吉川広家宛書状にははっきりと書いていないが、それは上方にいる広家の立場を配慮してのことであり、九州にいる鍋島直茂、加藤清正らにははっきりと「内府一遍の覚悟である」と言っている。
前もって準備もしている。(根拠史料、七月二十一日付長岡忠興書状(松井3−431号))

つまり鍋島直茂は如水が東軍であることを知っていて、この書状を書いている。


C (鍋島直茂の立ち位置)
「八月一日付吉川広家宛黒田如水書状」で、如水は九州の諸大名の人質の安否について配慮する際、鍋島直茂の名を筆頭に挙げている。
「八月四日付吉川広家宛黒田如水書状」で、如水は加藤清正と軍事行動を起こすと言っているが、このとき直茂の名前は無い。
つまり如水は鍋島直茂が動けないという事情を分かっている。直茂は動かないのではなく、動けない。
なぜ動けないか? → 鍋島勝茂が西軍にいるから。(如水の場合は黒田長政が東軍にいるので動ける)


D (では、直茂はどうしたか?)
「八月十日付黒田如水宛鍋島直茂書状」、直茂は東軍につくとも西軍につくとも言っていない。言えない。
直茂は東軍につこうとしたか、西軍につこうとしたか、という二元論で考えてはいけない。直茂は「関わり合いになりたくなかった」のだ。
そもそも直茂は佐賀にいて、動く気はまったくない。奉行衆の催促に応じて上洛する気もない。
伏見が落城したことを理由に上洛をやめたと言っているのは、言い訳に過ぎない。伏見が落城したからもう自分が上洛する必要がないという釈明をおそらく奉行衆にもしているだろう。(→おそらく如水は直茂の真意を理解して行動した。)
森兵庫から援軍要請があったときには、「自分は行きたいのだが、主君・竜造寺政家の許可がおりないので行けない」。


E (九州において同様の事例はあるか?)
中川秀成は奉行衆からの催促により、人数を田辺攻めに参加させるも、本人は岡(豊後竹田)に留まる。
島津忠恒は島津義弘からの催促により、家康から拝領した太刀を差し出し、石田三成以外の奉行二人(増田長盛と長束正家か?)へ誓紙を差し出すも、人数は出さず、本人は鹿児島に留まる。


F (その他、この書状から分かること)
鍋島直茂は黒田如水と懇意にし、なにくわぬ顔で伏見城落城の情報を送った。
奉行衆は九州に人数を留めることを考えていない、とにかく九州の諸大名を上洛させようとしている。そこで如水は留守になった九州の諸大名の城を接収しようとした。
鍋島直茂が森兵庫へ送った書状をもって「直茂は西軍である」とはできないし、鍋島直茂が黒田如水へ送った書状をもって「直茂は東軍である」ともできない。鍋島直茂は基本、二枚舌外交。


G (結論)
一次史料のみで判断するかぎり、鍋島直茂は、東西両陣営に積極的に関わり合いになろうとはしていない。動く気はまったく無い。
最初から東軍で・・・というのは後世の作り話である可能性が高い。  』


※杵築→岡(豊後竹田)の件は、8/31修正。
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高橋氏談:
『@伏見落城により上洛する必要がなくなったとしている Aこの書状によってすぐに「直茂が東軍である」とはできない、の2点では白峰先生と一致しました。』



★【比較ご参照】(一次史料を中心に)

★白峰旬先生による、関ヶ原合戦当時の鍋島直茂と情勢考:http://sagasengoku.seesaa.net/article/441436025.html

★深川による「時系列に見る、関ヶ原合戦前後の鍋島直茂」:http://sagasengoku.seesaa.net/article/441449722.html

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レポートは続きます。




posted by 主宰 at 22:02| 佐賀 ☔| Comment(0) | 佐賀戦国研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【時系列に見る、関ヶ原合戦前後の鍋島直茂】(一次史料から見える鍋島直茂と黒田如水・森兵庫・加藤清正の関係性)【H28.8/21 レジュメ改訂稿】




★ 当日配布した【佐賀戦国研究会メモ】を高橋陽介さんのアドバイスを元に改訂編集したものです。
【史料1】【史料2】とは、参加者へ配布した史料集との照合番号です。ブログ上では史料集は(量が多すぎて)紹介できませんので、御容赦の上読み流し下さい。


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【時系列に見る、関ヶ原合戦前後の鍋島直茂】
(一次史料から見える鍋島直茂と黒田如水・森兵庫・加藤清正の関係性)



2016年8月21日 @佐賀市 市民活動プラザ
史料調査及び編集者: 佐賀戦国研究会 代表 深川 直也


はじめに:佐賀藩公式の編纂史料

・勝茂公譜考補2は、佐賀県近世史料第一編 第二巻 に収載。
・直茂公譜考補10は、佐賀県近世史料第一編 第一巻 に収載


以下、上記史料をベースとして、日付の分かる一次史料を差し込み、時系列に並べたものです。



★慶長5年(1600年)

7月16日 (※ブログ上で追記) (※9/6付、7月14日の誤記を→7月16日へ訂正済。)
「上方へ至急、国元から兵2,000を送って欲しい」「直茂は上方へ来なくとも良いと思う」勝茂→生三 (佐賀県史料集成11巻)慶長5年に比定される書状

8月10日 (※ブログ上で追記)
「伏見城落城の知らせ、如水殿も聴いていると思う。私の元に奉行方から上方へ登るよう書状が来ており、不審に思われてもいけないので、もう行かねば叶わんかと思い一旦出発したが、伏見城落城の知らせが到来したので、上方へ行くのは延期することに致した。」直茂→如水(佐賀県史料集成21巻)慶長5年に比定される書状


9月10日 「貴邊之儀は内府一篇之御覚悟に候間、無心疎、」 直茂→如水 (佐賀県史料集成11)
※「如水殿は完全に内府方のご覚悟であるから、」 
→ この言い回し。直茂は、内府一篇之御覚悟ではない?     【史料1】

9月13日 石垣原合戦


9月15日 関ヶ原決戦  【龍造寺鍋島の動きは、図説資料参照】


(9月中旬)  関ヶ原決戦の結果が早馬で上方から佐賀へ到着、直茂知る。ただし勝茂安否不明の事。 内府勢が九州の反徳川方を掃討に来る事に備え、直茂は八戸に十間堀を掘らせ、覚悟し色々と考えていた。 
(勝茂公譜考補2) 佐賀

9月20日 高房勝茂、大坂玉造屋敷に逼塞中。久納市右衛門が上洛し円光寺元佶と黒田長政に、内府への謝罪の取りなしを願う。長政の助言を得て井伊直政を訪問、謝罪。甲斐弥左衛門も伏見で本多正信へ面会し謝罪。正信、山科の井伊陣所を訪問、元佶も同席。正信・元佶・井伊で話しあう。井伊が負傷していながらも家康の元へ行き、赦免の事と柳川征伐の命を口頭で受け、久納に伝達。久納は急ぎ大坂玉造へ帰り、子細を伝える。 (勝茂公譜考補2)


9月23日 宇土城攻略の「次柳川面之儀、心え申候。たとい鍋加(柳川・立花へ)加勢候共、働申すにおいては、苦しからざるように覚悟いたすべく候」 宇土 清正→如水 (黒田家文書)
※ 清正の認識上、直茂が、徳川方か・奉行方か去就不明。       【史料2】


9月24日  森兵庫から鍋島へ加勢要請 (黒田家文書)  日田 日隈城    【史料3】

(924 または824?)年次不明だが県史料集成上、収録位置がその周辺となっている。
 「日田へ飛脚申付け候ひて、豊州表の儀、承るべく候。(森)兵庫も今程気遣ひなく候や。懇ろニ書状を以て、申し越すべく候。此方之儀、(豊後日隈城からは)遠方にて、連々申し入れず候。なにの御用立候ハんと申し候て、懇ろニ申し入るべく候。其元萬之を調へる事、油断あるべからず候。かしく。
(慶長五年)廿四日 」 直茂→ 生三  (解釈思案中)    【史料4】


9月25日  勝茂、伏見へ行き家康と面会。正式赦免。奏者は井伊直政。 (勝茂公譜考補2) 上方


9月26日 呼子沖で龍造寺長信からの上方支援物資輸送船が、寺沢家に殲滅される。激怒の長信、唐津へ出陣の勢いを、直茂が制止。(水江事略) 「水江臣記 巻第二」にも同事件記述した南里氏の差出文あり。


9月26日  直茂から森兵庫へ返書  (佐賀県史料集成11) 佐賀   【史料5】
「加勢を出すべきだと思っている。しかし龍造寺政家様が肯んじない事、かつ距離が遠くて中々叶わない。」 ※ 援軍を確約していない書状と読める。この時期に森に援軍を確約するだろうか。


9月29日 「輝元は大坂を下城した由、知らせが来た。然らば、貴殿のご分別はいかように候や。ご分別によっては(清正は直茂殿のために)いかようとも馳走申すべく候間」 「立花宗茂らが落ち逃げてくるのを取り押さえれば功績になるのではないか?」 清正→直茂 (鍋加様 人々御中)(直茂公譜考補10)
※ この時、清正の認識上、直茂の本心不明         【史料6 下段】
 
9月末 勝茂勢 大坂船出 (勝茂公譜考補2) 上方 から帰路へ

9月晦日 「直茂様が仰せられ事に、「勝茂は会津にて果て、藤八郎妻子は大坂に果て、それがしは肥前にて腹を切り申し候らはん」とあったが、内府様は直茂に対して御赦免の儀の由、拙僧に仰せになられました。御一代御失念有るまじく候、様子は(葉)次郎右衛門にお聴きくだされ。」
円光寺元佶→直茂  (直茂公譜考補10)  上方→佐賀   【史料6 上段】
※これ以前に直茂は、関ヶ原決戦の結果を知っていた事になる。元佶長老の手紙は9月末付。

(9月末〜10月初旬? 直茂に、家康からの赦免の知らせの早馬到来。勝茂公譜考補2に日付は無し、早馬とのみ)(勝茂公譜考補2) 佐賀

10月2日 「(宇土城)落去程有る間敷く候。然らば其面より討ち洩らさる立花左近(宗茂)、妻子をぬすミ取り罷り下り、則ち柳川へ入城せしめ候。彼の者罷り下る事、少しは拙者仕合ニ候、宇土面隙明き(ひまあき。暇になること)次第相働き、則時討ち果たし御注進申すべく候。申すに及ばず候へ共、九州中之表裏もの共一人も御免じ成さらず候様ニ連々仰せ上げらるべく候」 

清正 → 浅野幸長 (新宇土市史 資料編第三巻 第二編 近世 P.248) 宇土
※ 清正の認識上、宗茂は征伐対象の一方、直茂は「表裏もの共」としての征伐対象でない様子。


10月3日 「日隈城の留守居(森兵庫)が、我らへも届けず敵方(奉行方)へ一味し、如水に敵対した事、是非なき事に候」「しかるうえは罷り下り糺明し」「敵方へ加担していた場合は、留守居の者成敗するつもりです」  毛利友重(高政)→ 如水  (黒田家文書)   釈明。   【史料7】

10月4日 「九州においては、島津・立花逃げ下りこれ有る事に候。」「両人の者ども即時討ち果たし罷り上り、」 如水→広家  (黒田家文書)
※ この時、鍋島は、如水の征伐対象に挙げられていない。     【史料8】

10月11日  勝茂勢帰国、佐賀城へ入城。柳川攻めの会議始まり昼夜3日続く。 (直茂公譜考補10)

10月14日  直茂勝茂 大軍を率いて佐賀城出陣。久留米方面へ。(直茂公譜考補10)
(鹿児島県史料 旧記雑録編 三 巻50)(1027付 宗茂 →島津家へ書状)とも日付内容一致。【史料9】

10月15日 「(如水勢が久留米城を落とし、)同十五日愚領中、はしばしへあい動候」 宗茂書状
(鹿児島県史料 旧記雑録編 三 巻50)(1027付 宗茂→島津家へ書状)  【史料9】


10月17日 八代城を清正勢が請取る。 清正→吉村橘左衛門尉 孫引【吉村文書】(熊本史学40号)
   同時期に、宇土城開城か。 熊本    【史料10】

10月20日  江上八院の戦い (柳河合戦) 筑後  朝〜夕方     【詳細は図説資料参照】
※ 佐賀鍋島側では、「柳河陣」「柳河合戦」という様に呼称される。


10月20日 「八郎院表へ敵二三千出合防戦候、得勝利、」「八郎院へ陣取候」
直茂 → 吉村橘左衛門尉(加藤家家臣)  孫引【吉村文書】(熊本史学40号)  【史料10】

「柳川において討とらるる所の首六百余、塩漬にして家康公へ差し上げられけり。」(直茂公譜考補10)
→ あまり知られていない江上八院の戦いが、いかに凄惨であったか。【古郷物語】中巻中『肥前の者共、堀へ落ちたる敵共、引き上げ引き上げ首を切り、不便(ふびん)なりし次第なり』
かつ現地で供養が続く慰霊碑や、語り継がれた怨霊伝説も状況証拠か →『八院合戦の結末と水田会見(黒田如水加藤清正)の由来』筑後市教育委員会・筑後郷土史研究会 発行(昭和52年)に詳細な収録あり。

10月21日 「昨日、御手柄之由承、於我等満足此事候、体により、明日其表可参候間、御面二可申候、」
如水 → 鍋島平五郎茂里 (直茂公譜考補10)

10月21日 清正は南関に居た。 柳川には未着。(清正→吉村左近への書状)
(新宇土市史 資料編第三巻 第二編 近世 P.250)

10月22日 内府から宗茂宛の「身上安堵の御朱印」を得ていた、丹親次(立花賢賀実弟)が水田へ到着。
恐らく1023に柳川城へ帰還。朱印を得て、宗茂は立花賢賀を清正の陣へ派遣。
(柳川の歴史4 近世大名立花家 H24 柳川市刊 P181)  【史料11】


10月25日  和睦交渉成立。柳川城開城。 (柳川の歴史4 近世大名立花家 H24 柳川市刊)


10月27日 宗茂 →島津義久・義弘・忠恒宛の書状。鍋島との合戦経緯を説明。徳川が薩摩征伐に動く由、
「御詫言」をするなら、「私(宗茂)が懸命に島津を支援するつもりです」
(鹿児島県史料 旧記雑録編 三 巻50)   【史料9】

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【その他史料紹介】

■鍋島直茂は、会津征伐に向かう徳川軍を支援し、兵糧を贈っていたという記述:【川角太閤記】添付

■龍造寺鍋島軍が関ヶ原の近距離に布陣し、警戒されていたという記述:【慶長年中卜斎記】添付

■江上八院合戦で、鍋島は主要なクリークを埋め立てながら、徐々に柳川城に接近した説:【古郷物語】中巻 添付。※具体的な戦術に中西豪氏は注目。「難攻不落と賞される柳川城の構造を知り尽した、鍋島家ならではの一手で、実際に有りえた戦術ではないか。柳川攻めの動員人数からも推定。」併【史料9】:『(出城共を)引払い申し候、然処に程近く仕寄り候、』『余程近く押詰候間、(鍋島の陣へ攻め掛った。江上八院合戦の事か。実質敗れて、)居城(柳川城)きはまで諸勢押寄詰陣候、』

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考察まとめ

★佐賀県史料集成上、慶長5年は如水書状の収録多く、清正の書状は少ない。かつ清正は直茂の敵対を仮定【史料2】同年1月末、黒田長政に借金した旨書状もあり、直茂は清正よりは如水と懇意に見える。
★直茂と森兵庫(森則慶)への往復書簡は、勝茂ではなく直茂も奉行方へ通していた証拠か。関ヶ原決戦後も依然全体状況がどうなるか分からず、煮え切らない文面の返書に見える。直茂・勝茂公譜考補ともにこの書状について採用はなく、直茂の実情を推察する材料として、重要な一次史料か。

★上記一連からの仮説:直茂と如水には徳川方・奉行方の枠を超えた意思疎通があり、如水は直茂の二股戦略・日和見を理解していたのでは? 一方直茂と清正は、直茂−如水間ほどの意思疎通は無く、清正は9月中佐賀で沈黙する直茂の去就を探っていたか。10/2時点で清正は、直茂を敵視はしていない様子。 


以上、佐賀戦国研究会の補考資料でした。


@「関ヶ原の戦いと黒田如水」高橋 陽介 氏 発表分はこちら:http://sagasengoku.seesaa.net/article/441326789.html

A「龍造寺鍋島氏と関ヶ原合戦」中西 豪 氏 講演分はこちら:(1)http://sagasengoku.seesaa.net/article/441353756.html(2)http://sagasengoku.seesaa.net/article/441410988.html

B 白峰旬先生による、関ヶ原合戦当時の鍋島直茂と情勢考はこちら:http://sagasengoku.seesaa.net/article/441436025.html


レポートは続きます。次回は高橋さんの鍋島直茂の書状考察と、発表レジュメ追記分のご紹介です。








posted by 主宰 at 15:19| 佐賀 ☔| Comment(0) | 佐賀戦国研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

★白峰旬先生による、関ヶ原合戦当時の鍋島直茂と情勢考。



★光栄にも白峰先生に、深い考察を頂きました。レポートとしてUPします。
白峰先生に「関ヶ原当時の鍋島直茂」について考えて頂ける事は、戦国史ファンや龍造寺鍋島クラスタには非常に貴重な機会だと思います。戦国史ファンの皆様、是非ご参照ください。

まずは2通の書状、原文を御紹介します。

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★『佐賀県史料集成古文書編 第11巻(佐賀県立図書館・昭和45年3/31発行)P.104

『坊所鍋島家文書』155号

七月十六日付 鍋島生三宛 鍋島勝茂書状


  追而、國本着候ハヽ、人数之儀二千ほと早々可差上せ候、ゆたんあるましく候、以上、
用所之儀候て市右衛門尉遣候、能々談合候て可然候、仍其方事早々國本罷下、蓮池番仕候て可然候、我等存候よく合点候て加州へ可申候、七郎左殿事、加州返事次第二下可申候、於様子ハ市右衛門尉可申達候、加州上國之事、増右へ申分遣候、無御登候共くるしかるましきと存事候、かしく、
 七月十六日  信 (花押)
  生三まいる  』

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★『佐賀県史料集成古文書編 第21巻(佐賀県立図書館・昭和55年10/1発行)』P.195 (頭注に『伏見落城ノ報』 『直茂上東延期』とあり。)

『川崎氏所蔵文書』一号

八月十日付 黒田如水宛 鍋島直茂書状


従上方到来候、ふしミ城去朔日、火矢にて被焼付、手々に取くつし、城中之衆皆々被相果候由申来候、貴邊へも其聞へ可有御座候へ共申入候、此方手前之仕寄無心元存、又ハ増右・長大・安国寺よりいそき可罷上通、連々預御状候へ共、于今延引、不審之様二承候間、罷上候ハて不叶儀と存、今日こゝもと罷たち候處二、我等もの右之落去見申候て罷下、夜中二参着申候二付て、罷上儀先以さしのへ申候、相易儀共候者、御入魂可忝候、恐惶謹言、
      鍋加守
 八月十日  直茂 (花押)
 如水様
   人々御中  』

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■8月10日付如水宛直茂書状について、白峰旬先生に御解釈を頂きました。
■2016年8/26付での、白峰先生の御解釈です。許可を得て全体共有致します。



@:文中では、家康(内府)については、一言も触れていないので、如水と気脈を通じていた、というようには読めない。直茂が家康寄りのスタンスであったなら、如水に家康への取りなしを書くはず。家康(内府)について一言も触れていないのが、すべてを物語っている(この時点の直茂の立ち位置は石田・毛利方のスタンス)。つまり、豊臣公儀の敵になった家康(内府)のことは直茂の眼中にない。家康のことをすでに見限っているか。


A:全体の印象としては、如水を石田・毛利方と認識して、上坂していない理由(弁明)を書いているように思える。8月上旬から中旬の石田・毛利方有利の状況(家康方不利の状況)を如実に反映している。


B:伏見城が落城したので、上坂を延期した、というのは兵力的に石田・毛利方への加勢が一旦必要なくなった、と考えたからだろう。上坂を延期したわけだから、家康方とさらに決戦が近付けば、兵力を連れて上坂する、という意図が見えるのではないか。上坂するということは単に挨拶する、のではなく、兵力を連れて軍事行動をすることを意味する。


C:伏見城を火矢を使用して攻めた、という記載は城攻めの方法として興味深い。


D:文中の「仕寄」(しより、しよせ)の意味は通常の意味(城攻めの際の遮蔽物)では意味が通らない。この場合、兵力くらいの意味か。


E:増田・長束・安国寺から上坂を命じる書状が複数来ている、と書かれているが、この書状は佐賀藩には伝存しているのか。本来なら、安国寺のかわりに前田玄以が入るべきだが、前田玄以は当時病気だったので、そのため連署から外れているのか。このことからも豊臣公儀(石田・毛利連合政権)における安国寺の立ち位置(三奉行の代理ができる立場)の重要性がよくわかる。


F:文中の「不審」の意味は、単に上坂しないと二大老・四奉行から疑われる、程度の意味で深い意味はないのではないか。


G:7月16日付鍋島勝茂書状に、2000の人数の上坂を勝茂が要請しているのは、本来、鍋島直茂が引き連れて上坂する予定の兵力数だったか。そのため、7月16日付鍋島勝茂書状では、増田に「申分」を遣わすので、直茂は上坂しなくても支障はない(兵力2000さえ上坂させればよい)と書いたのか。


H:195頁の頭注に「直茂上東延期」とあるのは「上東」ではなく、「上坂」の間違いだろう。


I:7月16日付の鍋島勝茂書状は、内府ちかひの条々が出された7月17日の前日にあたるので、内府ちかひの条々を出す前日の時点ですでに、石田・毛利方(豊臣公儀)が諸大名に兵力動員をかけていた証拠となり、その意味でも貴重な文書といえる。


J(8/27付):8月10日付鍋島直茂書状には、家康のことは一言も触れていない一方で、豊臣公儀の政権幹部である増田・長束・安国寺のことは明記されていて、そこからの指示を受けたことを記している。つまり、増田・長束・安国寺らのメンバーによる政権を正当な政権(豊臣公儀)として認めていることがわかる。
政権として認めていないならば、増田・長束などを非難する文言を書くはずだが、そういったことは一切書かれていない。ということは、この文書の宛所の黒田如水も同じ立ち位置と考えてよいのではないか。


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★ここから、2016年8/27付、白峰先生から頂いた、補考のまとめです。
 
『7月16日付鍋島勝茂書状といい、8月10日付鍋島直茂書状といい、絶妙な時期に絶妙な内容で、興味深い。7月16日付鍋島勝茂書状には鍋島生三が当時上方にいたようで、早々に国許に帰って蓮池城の在番をして、鍋島直茂には勝茂の考えを生三から説明するように指示されている。ここから勝茂が生三に何か言い含めて、直茂へのメッセージを託したようにも思える。

現代昨今のトルコの軍事クーデターのように、政情が不安定な国では一晩で政権がひっくり返ることがある。当時の秀吉死後の政権のパワーゲームは、現在の我々では想像もつかないような状態だったと思う。現在の我々はその後の結果を知っているので、家康中心で当時の歴史像を組み立てるが、中々すさまじい状況であったことは『十六・七世紀イエズス会日本報告集』を読むとよく分かる。家康に対して、日本史上まれにみる政治謀略が仕組まれたという意味のことが書かれている。つまり、その時点では、家康の前途は明るいものではなかった、という事である。

関ヶ原では政権軍(豊臣公儀=石田・毛利連合軍)が破れるが、政府軍が負けることは壬申の乱の例の如く、あり得る事。壬申の乱のあと、勝利した天武天皇がなにをやったのか、という点は、その後、徳川サイドが何をやったのか、という点とよく似ていると思う。政府軍が負けたからといって、政府軍と言うかこの場合、石田・毛利連合軍の意義を、過小評価してはならないと考える。』

――――

白峰先生、お忙しい中有難う御座いました! 実際、鍋島直茂研究史上、画期的な論考であると思います。
また私共も引き続き地元の史料を追い、何かあれば御一報させて頂きます!


レポ―トは続きます。次回、参考用に、佐賀戦国研究会の勉強会レジュメ概容をUPします。
(レポ―ト@、A―1、A―2は当ブログにUP済ですので、頁を捲って頂き併せて通読頂ければ幸いです。)




posted by 主宰 at 02:48| 佐賀 ☔| Comment(0) | 佐賀戦国研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする