2016年02月09日

★地方の関ヶ原合戦 ー多久市VS唐津市ー



『庭木右近の儀、慶長5年9月28日於唐津呼子討死、右子細は上方御防戦最中に付、兵糧ならびに武具など船へ乗組、為頭人罷越候、寺沢殿は東方にて候故、唐津衆取籠防戦、無拠討死仕候事』 /『水江臣記』 南里助右衛門差出。

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慶長5年9月28日、多久市の龍造寺長信から上方の龍造寺鍋島勢へ支援物資を発送。多久→唐津の海へ出て、海路を上方へ向かうコース。これを察知した唐津領主寺沢氏、この輸送隊を呼子の海辺で殲滅。(龍造寺長信が激怒したとされる。)

翌日の、9月29日。報復のため多久の龍造寺氏は、唐津領から祭礼事のために多久へ参っていた人々を悉く捕縛し、同時に多久衆が椋瀬口や、はばら坂で不穏な動きを見せた。/ 唐津と多久が「手切」(戦闘状態)の様相となったが、元来唐津の寺沢氏の領地は小さいため「今後佐賀と難しい事になってはかなわぬ」と寺沢氏で判断し、やむなく輸送隊を襲撃した寺沢方の部隊長2名を処刑。首が多久へ送られてきた。又、事件の時に唐津方の城代だった侍も一人処刑されたとも伝わる。

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典拠:『水江臣記』 南里助右衛門の差出分。

水江臣記とは、多久市の領主、後多久氏(龍造寺長信の子、龍造寺家久が改姓し多久氏となる)の家臣団それぞれの家の由緒や昔話を書き、差し出したものです。
水江、とは長信が継承した『水ヶ江龍造寺氏』を意味します。


★今回読んでいてはじめて輸送隊襲撃事件後に、後日談が有ったことを知りました。寺沢氏の判断・・・『リアル』、ですね。

この時は、あきらかに佐賀多久は西軍、寺沢は東軍、という認識だったでしょう。敵対する勢力の輸送隊を殲滅する事は、手柄です。

しかし・・、大河ドラマ『真田丸』に見える国衆の悲哀と同様、寺沢サイドは東軍ながら、領国が小さいため、いろいろと苦渋の判断をして、本来手柄をあげたはずの家臣の首をはねて詫び、敵ながら隣近所である龍造寺鍋島氏との遺恨を回避した・・。

ここには、かの大河ドラマの信濃同様、地方小領主の実情が垣間見えて、興味深く、・・ある種の悲哀を感じますね。


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posted by 主宰 at 23:02| 佐賀 ☔| Comment(0) | ■関ヶ原の戦い 〜龍造寺鍋島軍の動き〜 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする