2019年02月07日

★特別企画★第二回 関ヶ原の戦いを再検討する ― 高橋陽介・乃至政彦両氏に聞く関ヶ原の戦いの実像 ― (6月23日開催!)



開催のお知らせです。


第二回 関ヶ原の戦いを再検討する
 ―高橋陽介・乃至政彦両氏に聞く関ヶ原の戦いの実像―

■講師:白峰旬 先生、高橋陽介 先生、乃至政彦 先生


■日時:2019年 6月23日(日) 12:00〜16:00



■場所:KOKURAホール(https://www.kashikaigishitsu.net/facilitys/cc-kokura/access/
(福岡県北九州市小倉北区馬借1-3-9 クエスト第二ビルTKP小倉シティセンター6F) ※小倉駅・小倉城の近くです。

■参加費:1,500円

■事前予約不要、

■質疑応答の時間あり。


■主催:佐賀戦国研究会  ■協力:勝永座談会 


■名義後援:佐賀新聞社、宮帯出版社、日本史史料研究会、学研プラス『歴史群像』、東海古城研究会、他申請中

■お問い合わせ:sagasengoku@live.jp TEL:080-5242-4015
■Twitter: sagasengoku



「近年の研究で大きく変化した、関ヶ原合戦像。
 三名の講師と共に小倉城下に集い、九州および中央の情勢を見つめ直し、学ぶ。」


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■各演題と、講師紹介





 豊臣七将襲撃事件はあったのか      白峰 旬  


別府大学文学部史学・文化財学科教授。大分県。関ヶ原合戦の研究者として知られる。著書に『日本近世城郭史の研究』(校倉書房、1998年)、『豊臣の城・徳川の城―戦争・政治と城郭』(校倉書房、2003年)、『幕府権力と城郭統制−修築・監察の実態−』(岩田書院、2006年)、『新「関ヶ原合戦」論−定説を覆す史上最大の戦いの真実』(新人物往来社、2011年)、『新解釈関ヶ原合戦の真実』(宮帯出版社、2014年)などがあり、多くの論文が、別府大学機関リポジトリにてWEB公開されている。なお「関ヶ原の戦い関係の一次史料についての検討(その1)―鍋島家関係文書を中心に―」(『愛城研報告』第22号、愛知中世城郭研究会、2018年)に龍造寺・鍋島家についての研究がまとめられている。




 「九州の関ヶ原」と加藤清正       高橋 陽介

 
歴史研究家。東海古城研究会会員。静岡県。戦国時代の城郭を研究し、愛知県名古屋市を中心として研究報告等の活動をしている。2015年、著作『一次史料にみる関ヶ原の戦い』(自費出版)において、西軍は小早川秀秋を攻撃するために関ヶ原へ向かったとする説を発表。論文「関ヶ原新説に基づく石田三成藤下本陣比定地『自害峰』遺構に関する調査報告」(2017年、東海古城研究会『城』第224号)の他、近年の著書に『一次史料にみる関ヶ原の戦い(改訂版)』(ブイツーソリューション、2017年)、『天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』(乃至政彦・高橋陽介共著、河出書房新社・2018年)がある。
(HP:『一次史料と関ヶ原合戦と高橋家の日々』http://takahasiyo.blog.fc2.com/




 上杉景勝の用兵思想と政変戦略      乃至 政彦

歴史研究家。神奈川県。2011年に伊東潤との共著『関東戦国史と御館の乱』(洋泉社)を刊行。代表作『戦国の陣形』(講談社、2016年)の他、『戦国武将と男色』(洋泉社、2013年)、『上杉謙信の夢と野望』(KKベストセラーズ、2017年)、『天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』(乃至政彦・高橋陽介共著、河出書房新社・2018年)、『戦う大名行列』(KKベストセラーズ、2018年)などで知られ、監修としては『図解!戦国の陣形』(洋泉社MOOK、2016年)、『戦国の地政学』(実業之日本社、2017年)、論文に「戦国期における旗本陣立書の成立について−「武田信玄旗本陣立書」の構成から−」(『武田氏研究』第53号、2016年)がある。
(HP:『天下静謐』http://www.twinkletiger.com/





★沢山のご参加をお待ちしております!
なお、講師の書籍が数種、会場で販売される予定です。
(追って情報を更新します)



佐賀戦国研究会






posted by 主宰 at 14:35| 佐賀 ☔| Comment(0) | ■佐賀の戦国史 講演会について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月06日

平成31年、明けましておめでとうございます。



謹賀新年


明けましておめでとうございます。
旧年も、沢山の方々にお世話になりました。厚く御礼申し上げます。
今年もどうぞ、宜しくお願い致します。


さて、今年の佐賀戦国研究会のお知らせを致します。


平成31年 2019年 佐賀戦国勉強・座談会

★連続テーマ:『隆信公御年譜を読む』
講師:中西 豪 (歴史家)
戦国大名・龍造寺隆信の生涯を追います。  


■ 第一回:平成31年 2月9日(土) 13:00 〜 16:30
場所:佐賀市市民活動プラザ(白山) 4階

■ 第二回:平成31年 3月24日(日) 13:00 〜 16:30
場所:佐賀市市民活動プラザ(白山) 4階


■ 参加費:各 300円

■参加自由、事前予約・連絡は不要です!


【その他の予定】

■『忘却の日本史』VOL.15、16、そして西日本編特別号(深川連載執筆中)
書店にて販売中です(無い場合は書店で注文可能)。
2019年春、第3稿「神代勝利」執筆予定。


★2019年6月下旬 「第二回 関ヶ原の戦いを再検討する」

ゲスト:白峰旬先生、高橋陽介先生、乃至政彦先生、各内諾済
※但し、福岡県北九州市小倉で開催します。



新年のご多幸をお祈り致します!

先年より書き進めております沖田畷の戦い史跡踏査会レポートも、順次UPします。



佐賀戦国研究会

posted by 主宰 at 02:48| 佐賀 ☔| Comment(0) | 佐賀戦国研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月30日

★沖田畷の戦い・史跡踏査会レポートG【2018.10/27】


引き続き、沖田畷の戦い・史跡踏査会のレポートその8です。

★レポート7は、こちら:http://sagasengoku.seesaa.net/article/463274501.html


【俯瞰】下は島原市・中心部周辺の地図です。左の赤丸は「丸尾城(砦)」、真ん中の赤丸は島津・有馬本陣の「森岳(森嶽)」、右下の青丸は「浜の城」。(赤は島津有馬方、青は龍造寺方) 


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『上井覚兼日記』に、天正12年3月23日(沖田畷決戦の前日)に「三会の町(寺中城下)で龍造寺軍との小競合いが有ったようだ」と記されています。通説だと3/23には龍造寺隆信公本隊が寺中城周囲に布陣しているので、島津有馬方の斥候隊か、陽動隊でしょうか。いずれにせよ持ち帰られた情報が、島津有馬方の翌日の構えに活かされたのかもしれません。


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 (寺中城=三会城、踏査会の風景)


『北肥戦誌』P.680には、3/20〜3/23の間、龍造寺軍が続々と島原へ到着し、味方を援けるために「所々へ押詰め、防戦せられ」とあるので、島津有馬方も、状況を静観していた訳ではなく、決戦前に所々で(3/23三会の例の様に)小競り合いをしかけたり、逆に龍造寺方も押しつめて小競り合いとなっていたと思われます。

『直茂公譜考補四』には「廿日より有馬方の者共と矢合ありて、所々の敵を皆打散らされ、同廿四には・・」とあるので、やはり3/20〜3/23間は、本戦前の小競り合いが数件あったと考えられます。これらから、龍造寺方の人数が急増した事は島津方も把握したと考えられますが、ただしフロイス日本史の記述だと決戦前日に「龍造寺隆信自らが全軍を率いて接近しており、明日にも総攻撃に出る模様」という情報を、島津有馬方が得ているので、つまり3/20〜3/23の小競り合いから「敵が続々と増えているので、いつかは総攻撃に出て来るだろう」と予想はしていたが、「まさか明日とは」思っていなかった、という事でしょうか。


たしかにフロイス日本史の記述の様に、龍造寺隆信公の強さとは、過去の傾向上「相手が油断している内に、迅速に動き、急襲して勝つ」(例:村中水ケ江復帰戦、少弐冬尚&江上討伐、小田討伐)ことなので、今回も敵に知られない様にして、総力での急襲を仕掛けたのかもしれません。



           (必読本)
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完訳フロイス日本史10』P.275、島原半島のイエズス会宣教師たちを緊張させ不安にさせた事に「薩摩から派遣されてきた援軍は、当時はまだ少数だったことである。」とあります。

また『上井覚兼日記』に「(3月24日付)新納忠元と鎌田政近からの書状を預かった。『これまで味方の軍勢が少ない状況だったが、又四郎(島津彰久)殿、図書頭(島津忠長)殿、平田(光宗)殿などが着岸されたので、島原の落城は間もなくだろう』との事だ」とあり、彰久公は21日に渡海となっているので、少なくとも3/22頃まではイエズス会宣教師たちや民衆の認識として、島津の援軍は目に見えて不足していたのでしょう。

さらに、情報戦が垣間見える興味深い記述があります。「さらに有馬の幾人かの捕虜の若者たちが逃走したことも、司祭たちに不安を抱かせていた。これらの連中は、何らかの恩賞に与かろうとして密かに主君の家を脱出し、隆信に情報を提供してこう伝えた。有馬はいかに孤立し見離されていることか。もし貴殿がそれを占領しようと思うなら、先方には誰も抵抗する者はいないし、そのほか彼らは多く動揺し、不安に襲われ続けている、と。」『完訳フロイス日本史10』P.275


これ以前の時期、浜ノ城の城主・島原純豊公から龍造寺隆信公へ援軍を要請する際「必ずや勝利を博すでしょう。なぜなら薩摩の軍勢はごく少数であり、容易に撃破できると見えるからです」といった言上をしたとあります。(『完訳フロイス日本史10』P.269)


これら続々ともたらされたであろう情報を良く吟味した上で(実際、島津彰久公たちの増援軍が来るまで明らかに島津方は少数だったため)、龍造寺隆信公が島津軍をあなどった可能性は、大きいと考えられます。ただしそのあなどりは、単純な隆信公の「熊の豪気」や「暴君の傲岸」ではなくて、歴戦を勝ち抜いてきた戦略家による、冷静な情報分析の結果だったと言えるでしょう。



隆信公は、勝てると確信した。


一方、「果敢な武将である中務(島津家久公)は、従来よりいっそうの入念さをもって陣屋を固めさせ、陣地を整備させた。ドン・プロタジオ(有馬晴信公)も、自らは不便な地点に位置していたけれども、同様に堅実に構えた。」『完訳フロイス日本史10』P.275



かくして龍造寺隆信公は、進路を山手・中央道・浜手と三つに分け、徐ろに大軍を動かします。


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いよいよ決戦の時は近づきました・・・






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軍装の大山格先生と、晴天の普賢岳。(堂崎にて)







― レポートHへ続きます ―





posted by 主宰 at 01:45| 佐賀 ☔| Comment(3) | 佐賀戦国研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする