2019年06月25日

【出版されます!】『最新研究 江上八院の戦い』中西豪・白峰旬 共著本



慶長五年十月、筑後国においての決戦。

立花宗茂  VS  鍋島直茂 



『最新研究 江上八院の戦い』

中西豪・白峰旬 共著

日本史史料研究会 発行(2019.7月末予定)




遂に発行されます!

★予約注文フォームは、下記の画像を利用頂いて良いとの事です。

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PDFが良い方は、こちらからダウンロードしてください。:最新刊のお知らせ.pdf(日本史史料研究会)



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推薦文
                    佐賀戦国研究会 代表 深川 直也


佐賀戦国研究会は一般市民による戦国史研究会で平成二十四年(二〇一二)十月に発足し、現在に至るまで七年間、遠近から講師を招き、固定の会員制ではなく自由参加型の勉強会や歴史講演会・シンポジウムを開催しています。 先日六月二十三日には、北九州市小倉北区・KOKURAホールにて、『第二回 関ヶ原の戦いを再検討する −高橋陽介・乃至政彦両氏に聞く関ヶ原の戦いの実像−』と題したシンポジウムを催行いたしました。

遡ること、平成二十六年(二〇一四)八月二十四日、大阪市主催の「大坂の陣四〇〇年天下一祭」の参加事業でもあった第四回「救世主・鍋島直茂(統一政権下のサバイバル)」と題する歴史講演会の開催に当たり、配布資料作成の必要もあって、私は龍造寺鍋島家の関ヶ原合戦当時の動向について調べておりました。江上八院合戦の一般的認知について、強い疑問を抱いたのはその時です。
  
きっかけとなった本は、佐賀県立図書館で見つけた『八院合戦の結末と水田会見(黒田如水・加藤清正)の由来』〈筑後市教育委員会・筑後郷土史研究会、昭和五十二年(一九七七)十二月発行〉です。合戦経緯から結末、その後江戸時代を通して語り継がれた亡霊話まで、龍造寺鍋島側・立花側両方の編纂史料を良くまとめてありますので、機会があれば是非読んで頂きたいのですが、 この一冊に出会うまで、私は全くもって、江上八院合戦について無知でした。 
古戦場跡にも数回足を運んでみましたが、現地凡そ二キロメートル四方の中に古塚や供養塔が点在しており、それらは実は今も地元の方々によって大切に手入れされている事を知りました。四百十九年前の熾烈な干戈(かんか)の記憶と共に。


江上八院(えがみはちいん)合戦を、皆様はご存知でしょうか?


慶長五年(一六〇〇)十月二十日、福岡県久留米市城島町の江上地区から、大川市の中八院、三潴(みずま)郡大木町横溝の一帯で繰り広げられたこの激戦は、一日で決した局地戦のためか、そもそも佐賀県内の市町村史ですら、戦闘が有ったのか無かったのか良く分からない概説に終始しています。
合戦の名称もいくつか有り、筑後側の史料では江上合戦、八院合戦とも記され、佐賀側の史料では、柳川御陣、柳川合戦と称されます。

また一般的な関ケ原合戦関連の概説書や雑誌上でも、黒田如水と大友義統(吉統)が戦った石垣原合戦は「九州における関ヶ原合戦」として紹介される中、この江上八院合戦については、取り上げられないか、単なる小競り合いとして、または合戦というより加藤清正と立花宗茂の友情物語として、ごく短い文章で記述されているのみです。

今回の白峰旬先生と中西豪先生の考証によって、初めて詳細をお知りになる歴史ファンも多いと思いますが、実は世にも凄惨な、白兵戦でした。

しかも関ケ原本戦が終結し天下の趨勢(すうせい)が決した後での、龍造寺鍋島氏・立花氏の対戦であり、『直茂公譜考補十』によると最終的には、龍造寺鍋島氏に討ち取られた立花兵の首が六百余、戦勝の証として塩漬けにされ、上方へ送られています。この数字が小競り合いと言えるものでしょうか。


中八院の北東の隅に祀られている「三太夫地蔵」、即ち立花三太夫の戦没比定地一帯は、当時の名残を感じさせる地形で、今も水堀が入り組んでいます。中西豪先生と先年この辺りを踏査した際、中西先生がぼそっと「我、天啓を得たり」と呟かれたのを、今も覚えています。

ぜひ新著『最新研究 江上八院の戦い』をお読み頂き、WEBの地図上で、 中八院の地勢をご覧頂くと同時に、佐賀城、久留米城、城島城、酒見城、蒲池(かまち)城、柳川城の位置関係、そして督戦官となった黒田如水が布陣した筑後市水田、加藤清正の布陣したみやま市瀬高町、などの位置などを、俯瞰(ふかん)的に把握して頂ければ、同書への理解が深まる事と思います。

さらに、江上八院の戦いの存在は、日本史上ではトリビアルな事かもしれませんが、実は非常に奥が深いのです。前段階では私戦が復活した九州で、黒田如水、加藤清正、鍋島直茂、この三大名の思惑が書状上、私領拡大または御家存続を懸け、複雑に交錯しています。これをマクロの視点として、ミクロでいえば、江上八院合戦に際しての、龍造寺鍋島家と立花家、それぞれの家中に見える、動揺、対立、統制、及び戦闘経緯と結果から見いだされる沢山のファクターこそ、その後・江戸時代の両家の有り様に直結するものだと思います。

ともかくこの合戦の歴史が、ようやく史実として、まとまった一冊の研究書として、世に出る時期が来たのでしょう。当会としても感無量です。

ぜひとも全国の多くの研究者や歴史ファンに読まれることを願います。

※誰に頼まれた訳でもなく、勝手に推薦文を書かせて頂きましたが、もし失礼が有りましたら、大変申し訳ありません。宜しくお願い致します。


                                                  令和元年六月二十五日 記




(踏査時の写真から)


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2019年05月13日

【告知】『中・近世日本各地の忍者たち』第2回「ここまで分かった!佐賀の忍者史」



開催が近くなりましたので、お知らせ致します。


★『中・近世日本各地の忍者たち』講座

第2回 「ここまで分かった!佐賀の忍者史」


■講師:深川 直也 (佐賀戦国研究会 代表)


■三重大学伊賀サテライト伊賀連携フィールド・三重大学人文学部・上野商工会議所「伊賀連携フィールド市民講座」忍者・忍術学講座

■日時:令和元年 5月18日(土)10:30〜12:00

■場所:三重県伊賀市上野丸之内500 ハイトピア伊賀3階 コミュニティ情報プラザホール

■ 参加無料・事前申込不要


<情報告知>

三重大学 人文学部・人文社会科学研究科:http://www.human.mie-u.ac.jp/kenkyu/ken-prj/iga/kouza.html

三重大学 国際忍者研究センター:http://ninjacenter.rscn.mie-u.ac.jp/en/

伊賀市HP: https://www.city.iga.lg.jp/0000002739.html


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★三重県伊賀市において、九州は佐賀県の忍者情報・14名分を、歴史史料に基づき列伝風に御紹介します。

津城(安濃津城)の防御を偵察した佐賀の忍の動きなど、意外な事も分かってきました。

忍の情報もさりながら、龍造寺隆信、鍋島直茂、神代勝利、筑紫広門らのコアな情報も盛り沢山です。

伊賀市また近畿圏で、龍造寺鍋島史を語る講座というのも、非常に珍しい機会だと思いますので、忍者や九州の戦国史に興味が有る方は、是非ご参加をお待ちしております。


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★告知その2

歴史雑誌『忘却の日本史』 連載記事、

神代大和守勝利 (前篇) ― 十年磨一剣、霜刃を試す ― 」深川 直也 著

2019.5/25 発売予定です。前篇・後篇と分かれており、かなり充実した「神代勝利」記事だと思います。宜しくお願い致します。




佐賀戦国研究会






posted by 主宰 at 01:38| 佐賀 ☔| Comment(0) | ■佐賀の戦国史 講演会について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年04月20日

★更新版★【仮説】”九州の関ヶ原”の時、鍋島直茂は黒田如水の調略に失敗していた? + 「心疎」用例の検討



慶長五年比定 九月十日付 黒田如水宛 鍋島直茂書状(『佐賀県史料集成』第11巻「坊所鍋島家文書」26号)についての事。

※当該文書の詳細な解釈は、『愛城研報告』第22号(愛知中世城郭研究会 発行 2018年8月) P.4、白峰旬先生によりなされています。

補足になるかどうか分かりませんが、「心疎」の意味について、考察を加えます。



先日、邦訳日葡辞書を見ておりましたら「心疎」が熟語であった事を、初めて知りました。(皆様ご存知でしたら大変すみません)

(日葡辞書より「Xinso」シンソ・心疎。ある人から離反すること、またはある人と何の関係ももたず、交際もしないこと。
用例:”Xinsono yǒni gozaru."(心疎のやうにござる。)



そうしますと、当該の直茂書状につきまして、

「幸便候条、用愚札候、上方到来口上二申含候間、可被聞召候、連々可申入候へ共、貴邊之儀者内府一篇之御覚悟に候間、心疎、かさねて申入間敷候、可□其御心得候・・・・」

「無心疎」(しんそなく)を、あるひとから離反する事が無い、と解釈すると、

「如水殿は内府(徳川家康)一辺倒の御覚悟で居られますので、内府を離反する気持ちも無く 、以後情報は伝えることはできない」

となり、黒田如水が内府の味方として揺るがない事が、鍋島直茂の心情として強調された文章であると同時に、反面で鍋島直茂自身もまた奉行方として固い気持ちで居る事が覗えます。

両者の摩擦、いわば内府方と奉行方の気持ちの摩擦があって、もはや「かさねて申入間敷候」という宣言で、締めくくられているものと考えました。なぜなら、直茂が如水に今後情報を伝えない理由は、如水が「内府一篇之御覚悟」だからです。


ここからは、深読みの仮説ですが、鍋島直茂の怒気が少し感じられるこの書状は、もしかして、前々から黒田如水を味方に引き入れるべく鍋島直茂が説得交渉・調略を試みてきたが(伏線として、これまで何らか情報を共有してきたことは、書状から分かります)、失敗した、という事ではないでしょうか。

無心疎を、日葡辞書に従って「あるひとから離反する事が無い」と解釈し、

「貴方と私の仲であるから、以前から音信を交わしてきたし、今後も連々情報を伝えるべきだと思うけれども、あなたは内府一辺倒の覚悟で、(私が勧めてきた)内府からの離反をする事もない。それなら私は、もはや今後貴方に情報を伝える事はできない」


この「貴邊之儀者内府一篇之御覚悟に候間、無心疎、かさねて申入間敷候」は、

「貴邊之儀者内府一篇之御覚悟に候間、かさねて申入間敷候」と、別に「無心疎」と書かなくても成立します。


敢えて、この「無心疎」が見えるのは、
「心疎させたかったが、心疎が無かった、貴方は。」

という事ではないでしょうか。


曰、”九州の関ヶ原”の時、智謀の将で知られる鍋島直茂は、黒田如水の調略に失敗していた?


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★(2019.4/21 追記)

上記、鍋島直茂が記した「無心疎」の解釈について、白峰旬先生より、非常に詳細なご教示を頂きました。御多忙の所、有難うございます。許可を頂き、下記へ紹介いたします。


@:

「『邦訳日葡辞書』には語義として「心疎かな」とありますので、直茂書状での用法は「こころおろそかな」という意味の否定形になりますね。東大史料編纂所のホームページでのデータベース選択画面→全文の検索→古文書フルテキストデータベースで「心疎」で検索すると43件ヒットします。どの用例も否定形で出ているようなので、「心疎」がない、という形で使用しています。
御心疎」で検索すると1件ヒットします(吉川家文書 1198号)。この用例も否定形で使用されています。

御指摘のように、『日葡辞書』によって「心疎」=「ある人から離反すること」と解釈して、その否定形として「内府を離反する気持ちも無く」というように解釈することが可能かどうか、という点ですが、現時点では、私見では「無心疎」はその次の「かさねて〜」に続いていると見て、強調の意味のようにとりたいと思います。

御指摘の解釈のようであれば「依無心疎対内府」というような文になるのではないか、と思うからです。つまり「無心疎」が「内府」に対してのものであると明確に書いてないことが少しひっかかります。これは、現時点での私見の解釈ですので、今後かわるかもしれません。

※私見としては、「無心疎、かさねて申入間敷候」は、「(今後はこれまでのように)親しく重ねて申し入れることはない」と解釈します。」





A:『時代別国語大辞典』室町時代編に引用されている日葡辞書「心疎」の解説では、「ある人から離反すること」ではなく、★「あるひとから遠ざかること」と記されています。両者、表現に差異が出ている件について。


「『時代別国語大辞典』室町時代編において引用されている語の『日葡辞書』の意味の記載と、『邦訳日葡辞書』(岩波書店)における語の意味の記載は、同じ言葉であっても異なることがあります。これは訳した人の違いによるものと思いますが、典拠になっている『日葡辞書』のバージョンの違いかもしれません。

ですから、「心疎」の場合も、両者を比較すると微妙に言い回しが違いますね。御指摘のように、誰に対して無心疎で、主語が誰なのか、という問題はあると思います。」 (引用おわり)



→※ 私は序盤で「(如水殿は)内府を離反する気持ちも無く」と紹介しましたが、この部分、あくまで「無心疎」には、主語の明示がありませんので、黒田如水が内府(徳川家康)に対し「無心疎」なのか、はたまた、鍋島直茂が奉行方(いわゆる西軍)に対し「無心疎」なのか(この場合、文脈としては”如水殿は内府一辺倒の御覚悟であり、私鍋島直茂は、奉行方に無心疎でありますから”、となる)、断定ができず、解釈が難しい所です。


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折角、白峰先生より貴重な御教示を頂きましたので、勉強のために「心疎」の用例をできるだけ下記へ挙げ、考えてみたいと思います。
(九州における14例、年代順)



「重々御自訴之段承候、必各申談、其取合不可有心疎候、」

『柳川市史 史料編V』「田尻家文書」42号 (天文4年頃比定 7/11)入田親廉→田尻親種宛書状




「毎々御辛労之条、必此度之事者、可被成御感候、涯分可致御取合之由被申事候、彼山御隙明候者、可為帰陣候条、御用等至 御座所蒙仰、不可有心疎候、」

『柳川市史 史料編V』「田尻家文書」92号 (年欠・元亀元年以前比定 10/19)木付鑑盛→田尻親種宛書状




「秋月於宅所一段御粉骨之趣、銘々遂披露候処、忝被請 上意候、尤珍重候、倍相応之儀、不可有心疎候、殊(田尻)鑑種御申事之儀、不可有心疎候、」

『柳川市史 史料編V』「田尻家文書」91号 (弘治3年頃比定 8/25)臼杵鑑速→田尻鑑種宛書状




「不寄自他家、至隆信様、於心疎之衆者、鶴田因幡守事、聊不可有同意之事」

図録『九州の戦国と武雄』「永野御書キ物抜書」105号 (永禄10年6/9)鶴田(因幡守)勝起請文写




「隆信事、連々之貞心不可有別儀候處、中国之者共渡海之砌、案外之覚悟、讒人之所行候哉、無心元存、可糺邪正之段、就申出候、無心疎之趣、至年寄共、始中終入魂之次第、具令承知候、」

図録『九州の戦国と武雄』「永野御書キ物抜書」138号 (永禄13年10/23)大友宗麟 → 龍造寺隆信・政家宛起請文




「一、改先非、対龍造寺隆信・同鎮賢、為草野鎮永、盡未来際不可有相違之事、一、留守弥次郎、并、吉井民部少輔事、為鎮永、当末心疎有間敷事、」

図録『九州の戦国と武雄』「永野御書キ物抜書」163号 (天正3年1/18)草野鎮永請文写



7
「対龍造寺隆信、同鎮賢、為道嘉、鎮信、当末無心疎可申談之事」

『佐賀県近世史料』第3巻 龍造寺家文書 125号 (平戸)松浦道嘉(隆信)・鎮信連署起請文 (年月日メモ忘れ)



8
「至龍造寺隆信・同鎮賢、為蒲池鎮並、不可有心疎之事、」

図録『九州の戦国と武雄』「永野御書キ物抜書」153号 (天正6年11/26)蒲池鎮並起請文写



9
「至龍造寺隆信・同鎮賢、為田尻宗達、不可有心疎之事、」

図録『九州の戦国と武雄』「永野御書キ物抜書」131号 (天正6年11月晦日)田尻宗達起請文写



10
「対田尻宗達、為隆信・鎮賢、当末不可有心疎之事」

『柳川市史 史料編V』「田尻家文書」169号 (天正6年12/22)龍造寺隆信・同鎮賢連署→田尻宗達宛 起請文



11
「今度、閣先々吉凶、小代宗禅・宗虎・親泰事、至龍造寺隆信・鎮賢申談候上者、何様盡未来際、右三人不可有心疎之事、」

図録『九州の戦国と武雄』「永野御書キ物抜書」160号 (天正7年4/4)小代親泰起請文写



12
「此方親子、対鑑種毛頭無心疎之条、弥無御疑心様以御神文申入候」

『柳川市史 史料編V』「田尻家文書」194号 (天正9年7/20)龍造寺隆信・同久家連署→田尻鑑種宛 起請文



13
「一、今度改先非、鑑種・隆信・政家申談候之条、当時行末、対鑑種、無心疎可申承之事」

『柳川市史 史料編V』「田尻家文書」203号 (天正11年7/21)龍造寺隆信・同政家連署→田尻鑑種宛 起請文



14
「一、今度被改先非、至隆信・政家被仰談候条、為鍋島飛騨守、対田尻鑑種、不可存心疎之事」
『柳川市史 史料編V』「田尻家文書」204号 (天正11年7/21)鍋島信生(直茂)→田尻鑑種宛 起請文




★ 上記に加え、高村不期氏より、「心疎」について、関東の戦国時代の用例を御教示頂きました。ご厚意に感謝申し上げます。

高村氏による大変な労作データベース(全体公開されています): historical_resource065から、「心疎」の検索結果を、以下へ引用・紹介いたします。(全4例)




「自今以後別而可有御相談旨候間、於氏政不可存心疎、無二無三可申合候、悉皆其方御馳走任入迄候、」

『戦国遺文後北条氏編』1964号(天正6年比定 1/25)北条氏政 →遠藤内匠助宛 書状(斎藤報恩館所蔵遠藤文書)




「貴辺鬱憤之擬も更難叶儀候歟、乍出角氏政父子ニ被相談候者、始中終涯分無心疎、大小事共ニ可申合候、」

『戦国遺文後北条氏編』2347号(天正10年比定 6/11)北条氏政 → 滝川左近将監宛 書状(高橋一雄氏所蔵文書)




「疾以直状雖可申述候、不知案内之間、先以遅ゝ非心疎候」

『戦国遺文後北条氏編』2439号(天正10年比定 10/25)北条氏政 → 上野筑前守宛 書状(館山市立博物館所蔵上野文書)




「炎天之砌着府、誠御辛労ニ候、雖然入魂之筋目珍重ニ候、殊息子当地ニ被指置由及承候、先以肝要候、於氏直遂日可為懇切条不及申立候、於愚老も相当之儀不可有心疎候」

『戦国遺文後北条氏編』2473号(天正10年比定)北条氏政 書状 (月日欠/差出人欠/宛所欠、上書:長尾入道殿 截流斎)(上杉文書十一)






※興味深いことに、4例全て、北条氏政による用例です。







→上記、九州の戦国時代の用例(全てではありません、他にも用例を確認しました)を挙げて検討した結果、九州では主に、家中ではなく、他家と交わされる起請文中に、打消しの「無」・「不可有」などを伴って「心疎」が用いられている事が分かりました。

(家中の下から上への起請文では、”無二心野心” ”無別心” ”無逆心” などの言葉が主のようです)



以上からの私見ですが、堅い・フォーマルな言い方を醸したい場合や、”鷹揚な口ぶり”にしたい場合に、「心疎」が用いられていると言えないでしょうか。





佐賀戦国研究会 深川 直也



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関ヶ原の戦いのシンポジウム、開催が近づいて参りました、ぜひ皆様、お越し下さい!

(事前予約不要です)

★「第二回 関ヶ原の戦いを再検討する ー高橋陽介・乃至政彦両氏に聞く関ヶ原の戦いの実像ー」

■三講師:白峰旬、高橋陽介、乃至政彦
■日時:2019年6月23日 12:00〜16:00
■場所:KOKURAホール(福岡県北九州市小倉)
■参加費:1,500円  


★公式告知:http://sagasengoku.seesaa.net/article/464037320.html


【入稿用】チラシ_A4_縦_表面.jpg



【入稿用】チラシ_A4_縦_裏面.jpg










posted by 主宰 at 01:30| 佐賀 ☔| Comment(0) | 佐賀戦国研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする